映画「ノア」の紹介

映画「ノア」と言えば、ラッセル・クロウ主演の、日本上映が6月から始まるものだと思われたと思いますが、いいえ違います。「180」や「進化論 vs 神」を作成したLiving Watersが、アメリカでの上映直前に、同名の映画をやってくれました!

面白いことに、YoutubeでMovie Noahなどと検索すると、ハリウッドのノアの映画の予告編は四位で、この映画は二位、その他も、ハリウッドの映画は聖書から逸脱しているという検証ものばかりが出てきます。アメリカではクリスチャンによる批判や論評がものすごく出ていて、「映画館に見ないようにしよう」運動が広がっています。背景の日本語記事はこちらです。

映画「ノア – 約束の舟」は聖書的でしょうか?

カルバリーチャペルの衝撃

ボブ・コイ牧師の辞任

カルバリーチャペルにおいて、おそらく最大の教会である、フロリダ州にあるカルバリー・チャペル・フォートローダーデールにおいて、その牧師、ボブ・コイ(Bob Coy)が姦淫の罪を犯したことで、突然辞任したニュースが、4月3日以降に入りました。こちらに日本語の記事があります。

カルバリー・チャペルに激震

 私は、4月3日以降、ニュースを読んだ時にそのとおり、心に激震が走りました。フェイスブックにおいて次のように書き残しています。

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「不道徳や教会の金銭の不正使用に拠ることよりも、兄弟を告発することによってもっと多くの教会が壊されてきた。粗探しが我々の社会にあまりにも浸透しており、ほとんど『ミニストリー』の地位にまで引き上げられてしまっている!」(フランシス・フランジパーヌ)

既に英文の記事が数多く、ある著名なカルバリーチャペルの牧者の犯した罪についてFB上でシェアされています。そのほぼ全てが良い意図でシェアされていますが、私自身はあまりにも悲しくてただ泣いており、また主に対する畏れで震えています。

ここでの希望と慰めは、本人も含め、教会が厳格に聖書に基づいた戒規に則り動いていること、次に教会の兄弟姉妹が溢れるばかりの愛をその家族と本人に向けていることです。彼がこんなにも愛され尊敬されていたのか、と驚くばかりです。

私は批評する立場にありません。執り成す立場にあります。また自分自身を吟味し、裁く立場にあります。自分の仲間、つまり日本のカルバリーチャペルの牧者や宣教者のために互いに祈る立場にあります。

あるコメントで、こんな内容のものがありました。ノアがぶどう酒で酔いしれ、全裸で寝ているところをカインがじっと見て、軽蔑し、あざけっていた。けれども、セムとヤペテは、その裸を見ないで後ろ向きで覆いを持ってきて父にかけた、という内容です。「顔を背けて、父の裸を見なかった」とあります。

これが今の私の思いにぴったりです。忘れたい・・、けれどもそれは抑えているだけで、悲しみが心から溢れてきます。でも、これでいいんだと思います、これが主が与えられている吟味の時、また内なる罪の告白の時です。

そしてこのことについて議論せずに、前に向かっていく。当教会の人々を始め、直接関係しておられる方々が実に知恵深くこの問題に取り組んでいるので、彼らのために陰で祈るけれども、声高に是々非々を語りたくありません。主の御手にゆだねたい気持ちです。 続きを読む カルバリーチャペルの衝撃

LCF、土曜・日曜午後の活動場所の変更

私たちの教会は、これまで日曜午後の礼拝をDBC本校で行っていました。けれども、DBCが分校として、午前礼拝の場所である、冠第二ビル三階の他に、さらに四階も教室を拡張しました。そして、そこも私たちの教会が使用して良いことになりましたので、お伝えいたします。

これからの予定は、したがって変則的になります。

4月27日(日)午後礼拝:四階にて
5月4日(日)午後礼拝:三階にて(日暮里教会が午後、不使用のため)
5月11日(日)午後礼拝:四階にて、以降四階を使用

ぜひ活動カレンダーを見て、いらっしゃる前に確認してください。よろしくお願いします。下のページを開いてください。

教会(LCF)の紹介

権威に対する取り組み

牧者の喜び

昨日は無事に復活祭礼拝を捧げることができました。礼拝の後、初めて来た二十代の女性が、イエス様の復活の御業をご自分のものとして信仰告白をされました。

牧者にとって、何がやりがいなのか?と聞かれる時は、やはりこのような時でしょう。単に、口で告白したからという機械的なことを話しているのではありません。その人の人生、その苦しみや悩みを聞き、そこにキリストの十字架の血潮が注がれたこと、そこに注がれた御霊と新しくされた心を見る、それが喜びであります。

それだけではありません。むしろ信じた後が大事で、その信仰にあって本人が成長し、変えられる姿を見る時に、やっていて良かったと感じます。まだ本格的に牧会を始めて三年ちょっとです。聖書教師としては長い月日が経ちましたが、神が実質的に牧会の働きを与えられたのは、この開拓教会であります。されど、三年ちょっとです。神の畑で各人が、神を見つめ、その中で信仰によって近づいている姿を見ることができます。

次に喜びは、信者たちが互いに助け合い、祈り、そして他の信仰の若い人々を助けている姿を見る時です。私だけが伝道し、奉仕しているのではなく、私も彼らと同じ兄弟であり、共に教会を建て上げる一部になっていることを見る時に、喜びを感じます。まさにキリストが頭となっておられて、私たちが同じところに立っているその一部であることを見る時に嬉しくなります。

ところで、ずっと心に引っかかっている言葉があり、それは日本において、このことが克服できれば心が楽になるであろう、そして霊的刷新にもつながるだろうと、と思わされる言葉があります。それは「権威」であります。

権威には、牧会者のような霊的権威が与えられている職もあり、また、地上における権威は、妻にとっての夫、子にとっての親、会社における上司、学校の先生、そして納税などの行政機関、警官、そして国とその指導者がいます。クリスチャンにとって、一番身近な牧師という存在から説明します。

キリストの体を船に例えると

ブログ記事でも書いてきましたが、「牧師中心主義」という日本の教会にある課題がある一方で、「卒業信者」という名称ができているほど、教会から離れているという両極端になっている訳です。なぜ、このような二極化が起こるのかと言いますと、「権威」についての理解が、信者のみならず牧者であっても知らず知らずのうちに間違ってしまう、という課題があるからです。こちらのブログがとても分かり易い例えでしょう。

牧師は船長で、信徒は乗客か?

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恵比寿バイブルスタディ(4月23日)

こんばんは。今日の復活祭礼拝はいかがでしたか?
イエス様がよみがえられた事実を喜び、祝うことは本当に幸いです。

今週の恵比寿のお知らせです。

日時:4月23日(水)午後7時から
場所:目黒区立 田道住区センター三田分室 / 2階 第一会議室
聖書箇所:ルカによる福音書5章
※次回は、2014年5月7日です。

5章から、イエス様の宣教の働きにエンジンがかかります。乞うご期待!

私にとってのキリストの死と甦り

今日は、キリストが死んで葬られている日、明日が復活でありますが、主は、死んで、「葬られ」、三日目に甦られました。

私たちには、常に「死」という現実に直面します。韓国での船の沈没で、行方不明の若い子たちはどうなるのか?行方が分からず泣き叫ぶ、ご家族の姿を見て胸が張り裂けそうです。一人でも多く助かることを切に祈ります。死が、これだけの嗚咽と泣き叫びをもたらすものなのに、確実に、暴力的に迫ってきます。

死と陰府(死後の世界)は、いつも大量の魂を飲み込む、ブラック・ホールのような存在です。こんなに無残で残酷な現実なのに、無慈悲に迫ってくるのです。

思い出すと、私はキリストの十字架について、涙を流すことはありませんでした。イエス様の映画については、今は「パッション」が一番知られていますが、私が救われた当時は「ジーザス」が主流でした。救われて間もない時、もちろん私は、イエス様に、こんな罪人のために身代わりとして、進んで十字架の道を進まれるお姿に神の愛を知って信じる決心をしましたが、そこで涙を流すことはありませんでした。

しかし、自分の大学の学園祭で、大学内のキリスト者留学生会が催していた映画会に立ち寄りました。ジーザスの映画を見た、初めての機会でした。私が見たイエス様は、上に書いた無残で、何の甲斐もなく死んでいかれた方でした。ガリラヤで、その湖のそよ風が肌で感じられるぐらい、その恵みの言葉、また人を救う奇跡があったのに、エルサレム城外の、大通りにすぐ面したしゃれこうべでの死刑場で他に極刑を受ける数多くの者たちと変わりなく、無残な死を遂げられました。 続きを読む 私にとってのキリストの死と甦り

イースター(復活節)のご案内

ロゴス・クリスチャン・フェローシップでは、4月20日に復活祭礼拝、全日19日には前夜の集いをします。19日は十字架の受難に焦点を当てたいと思っています、そしてお食事と30分程の映画も見たいと思います。教会に普段いらしておられない方は、大歓迎です!(下のリンク先をクリック、PDFファイルが開きます。)

イースターチラシ

“普遍教会”にある誤謬

(「民衆という”深海”を見よう」の続き)次に「日本のキリスト教」で取り上げたいのは、内村鑑三によって始まった無教会のことです。これまで無教会について詳しく知らなかったのですが、現在の問題に直結しており、日本のキリスト教特有の問題としても顕在しています。古屋氏は、実際の無教会に長いこと触れてきたので、その実情を知っている方です。日本のキリスト者の病を抉り出しています。

1.「便利」な信仰

「それに、「無教会」と自称する人々はかなり居るのではないだろうか、と思われるのである。というのは、わが国には、教会に対する批判と不満を公然と表明できる自覚的な無教会の人々のほかに、いわゆる「隠れキリスト者」的な「無教会」信者がかなり居るからである。「無教会」というのは、自分のアイデンティティをはっきりしないのに都合が良いし、わが国に多いいわゆる「卒業信者」受洗後まもなく教会に行かなくなる人々が自称するのに便利だからである。」洗礼を受けているということで風当りが強くなるけれども、「この意味でも無教会というのは、わが国の精神風土に適合したキリスト教ではないか、と思われるのである。」

以前、ヤロブアムがダンとベテルに金の子牛を造って北イスラエルの住民に拝ませたところから、「コンビニ礼拝」という題名で説教をしたことがあります。(原稿音声)。自分に都合のよいように信じていくことは、たとえそれがイエスの名を使っていても、偶像になってしまっている、という話です。日本人が自分の都合で神々を選べるのと同じように選んでいけることを表しています。

2.「無制度」という名の強い制度

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民衆という”深海”を見よう

深みに入る信仰

(「きちんとした「牧師」の欠け」の続き)次に古屋氏の「日本のキリスト教」で取り上げたいのは、「民衆にある力」です。このことは既に、「単純な信仰のススメ」で書きました。そして今週の西日暮里バイブルスタディで、ヤコブ書1章1‐11節の学びで取り上げました。その部分をご紹介します。

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私たちは救われるだけでなく、救われた後に霊的成熟に向かわなければいけません。そして霊的成熟に至らなければいけません。それによって、初めて救われたことが明らかにされます。その時に大切な要素をヤコブ書は教えてくれています。有名な言葉は、「信仰も、もし行ないがなかったら、それだけでは、死んだものです。(2:17)」成熟した信仰には、十分な、それを裏付ける行ないがあります。その信仰には深みがあります。表面的な信仰の言葉ではなく、実質の伴った、人を動かす力があります。

「日本のキリスト教」(古屋安雄著)という本を今、読んでいますが、そこにアメリカの教会を海の三つの層に分けている教会史の歴史家がいるとのことで紹介されていました。上層は海面、中層は海流、下層は深海となります。海面とは、海上を吹く風、すなわち時代思潮(=時代に流れ)によって、波のように風向きによって激しく左右上下に動揺します。その下にあるのが海流ですが、その時代の思潮に対しては、緩やかな反動しか示さない主流的なキリスト教思想のことだそうです。そして、それよりもっと下にあるのが深海ですが、これはどんなに風が全然動じない民衆の信仰のことだそうです。そして、この教会史の歴史家によると、「教会の生命と言うべき信仰が実際に生きているのは中層と下層、殊に下層の民衆の信仰においてである。」ということです。(ちなみにアメリカではその深海にあるキリスト教の筆頭に、ビリー・グラハムを挙げています。)

つまりヤコブ書は、この下層、最も深いところが真の信仰なのだよ、ということを話しています。表面的に信仰であると私たちが話しているものではなく、その深みがあってこその真実な信仰であるということです。表面的な信仰からの脱却です。
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こちらが原稿、そしてこちらが音声です。 続きを読む 民衆という”深海”を見よう

きちんとした「牧師」の欠け

福音派以上の福音的主流派の方々

今、続けて古屋安雄氏の「日本のキリスト教」を読んでいます。魂が揺さぶられる、とまで言いましたら大袈裟ですが、近代日本のキリスト教を追いながら、現代の日本のキリスト教が直面している課題に体当たりしている、これまでにない視点が与えられています。

けれども読者によっては、「なぜ、そんなに感動するの?」と思われる内容かもしれません。けれども、単純な一つ一つの指摘が、これまでにない違った切り口を示してくれているからです。

著者は日本基督教団に所属している神学者です。恥ずかしながら、私は主流派、殊に日基に対しては偏見を持っていたことを告白します。しかし、使徒信条の講義について以前、当ブログで紹介しましたがそれも日基の教会のもの、そしてキリストのみ、礼拝中心の教会と福音を書いた小冊子も紹介しましたが、日基の教会の牧師さんが書いたものです。

非常に不思議なのは、イデオロギー的には正反対の事を書いて事があるにも関わらず、それはあまり気にならないのです。例えば、先のブログで紹介した牧師の方々の書いたものには進化論の容認とも取れる発言も少しだけ見えます。仏式の葬儀で焼香をしてもよいだろう(?)いう話も少し出てきました。古屋氏も、例えば女性解放論には敏感で前面に出してきます。けれども、私は聖書的に男性しか牧会者になれないと思っています。 続きを読む きちんとした「牧師」の欠け